川辺の風景
展示にあたって
2018年の春を迎え、チョンゲチョン(清渓川)博物館では小説家のクボ(丘甫)パク・テウォン(朴泰遠)の小説『川辺の風景』を素材とした企画展示会を開催します。
文学は社会を反映する鏡であり、時代の産物と言われます。クボ(丘甫)パク・テウォン(朴泰遠)は繊細な描写と特有の躍動感あふれる文体で、1930年代のキョンソン(京城/現在のソウル)のチョンゲチョン(清渓川)を中心にして繰り広げられる様々なエピソードをバラエティに富んだ登場人物の人生を通して描いています。
今回の展示会では、小説の背景であり都会へ変化し始めていた1930年代のキョンソン(京城)の中央を流れるチョンゲチョン(清渓川)と、その周辺で生きる人々の暮らしぶりや文化について紹介します。
[PART 1] クボ(丘甫)パク・テウォン(朴泰遠)、作家の部屋
パク・テウォン(朴泰遠/1909年~1986年)
ソウル生まれ、筆名:仇甫・丘甫・九甫、夢甫、パク・テウォン(朴泰遠)など
1926年「朝鮮文壇」で「ヌニム(お姉様)」というタイトルの詩が当選したのを機に名を知らせた。1929年に京城第一高等普通学校を卒業した後、日本に留学した。韓国に戻ってからは1933年に文人団体「九人会」で活動を始める。イ・サン(李箱)、イ・テジュン(李泰俊)、キム・ギリム(金起林)などと一緒に豊かなチャレンジ精神で新しい創作技法を積極的に取り入れ、1930年代のモダニズム文学を開く中心的な役割を果たした。当時発表した作品には『小説家仇甫氏の一日』『川辺の風景』などがある。韓国戦争中の1950年に北へ渡り、北朝鮮でも創作活動を続けて『鶏鳴山川は夜が明けたか』『甲午農民戦争』などを発表した。その他『三国志』『水滸伝』などの翻訳小説をはじめ、詩・コント・随筆・評論など様々なジャンルの約200編余りの文学作品を著した。
小説『川辺の風景』
1936年「朝光」に『川辺の風景』が連載され、1937年には『続・川辺の風景』が連載された。その後、長編に改作され、1938年に博文書館から単行本『川辺の風景』が出刊された。
これはチョンゲチョン(清渓川)の周りに住む人々の日常を描いた小説で、50のエピソードの中には約70人余りの人物が登場し、共同洗濯場や床屋を中心にして起こる様々な話が繰り広げられる。パク・テウォン(朴泰遠)は考現学(現代の社会現象を組織的に調査・研究し、世相や風俗を分析・解説しようとする学問)に沒頭した作家であり、このような丘甫式考現学の完結編が『川辺の風景』である。この作品はモダニズムともリアリズムとも称され、驚くべき作品として評価された。
1930年代のキョンソン(京城)とチョンゲチョン(清渓川)
1930年代に入り、大陸侵略政策の拠点として重要な役割を果たすようになったキョンソン(京城)をより効率的に統治するため、日本は土地区画の再編に取り掛かり、1934年に発表された「朝鮮市街地計画令」によって具体化される。これは単に土地を整理するだけのものではなく、チョンゲチョン(清渓川)を境に南側にあるナムチョン(南村)には日本人が住み、北側のプクチョン(北村)には朝鮮人が住むという住民の構成に変化をもたらした。植民地時代の土地に関する行政や制度がナムチョン(南村)に集中されたことから、地位や富を独占していた日本人が住むナムチョン(南村)はどんどん文明化され、逆にプクチョン(北村)は文明から離れた生活を余儀なくされた。
クボ(丘甫)パク・テウォン(朴泰遠)は、1936年、雑誌「朝光」に『川辺の風景』を連載し始める。彼がこの小説を書いた頃、チョンゲチョン(清渓川)の周辺には共同洗濯場・韓薬局・呉服店などの伝統的な施設と床屋・下宿屋・カフェ・レストランなどの近代的な施設が共存していた。伝統と近代は、このような施設を利用する人々の意識の中にも共存した。1930年代のチョンゲチョン(清渓川)周辺は、伝統と近代が共存しつつ交差する場所であり、川の周辺に住む人々はこのような変化に混沌としながらも、徐々に近代的な生活様式に慣れていった。
[PART 2] 川辺の風景、川辺で出会った人々
小説『川辺の風景』に登場する人物は、川辺という共通の環境の中で暮らしている大勢の住民たちだ。ある特定の人物に限られた話ではなく、50のエピソードごとにそれぞれ違った人物が登場する。その人物は自分の話の主人公となり、同じく川辺で暮らしている周辺の人物たちとともに1930年代の暮らしぶりを生き生きと伝える。伝統的な生活から近代的な都市生活に移行する時代の変化が細密に描写されている。
[PART 3] 1930年代以降の川辺の風景
1934年に「朝鮮市街地計画令」が発令され、それに伴い、キョンソン(京城)を大幅に改造・拡張しようとした「対京城計画」の一環としてチョンゲチョン(清渓川)の全面覆蓋化が積極的に検討された。これは軍需物資の便利で早い輸送を目的としたものであったが、財政上の理由で実現されず、極一部分に限り覆蓋工事を行った。その後、1958年から本格的な覆蓋工事に着手、1970年代に至るまで続く。チョンゲチョン(清渓川)の覆蓋工事は日本による植民地時代と韓国戦争を経てから始まり、貧困と非衛生を象徴するような場所と化した。それにもかかわらず、そこは女性たちの井戸端会議の場所であり、子どもの遊び場であり、大勢の人々の暮らしを見守る場所であった。