清溪川博物館紹介

清溪川博物館の正面は長いガラス作りになっています。これは2005年10月1日に新たに復元された清溪川の流れを象徴するものです。
清溪川博物館は常設展示室・企画展示室・文化公演のための小劇場のある博物館です。
清溪川博物館では清溪川の歴史や2003年7月から2005年9月まで2年3ヶ月間の復元工事の過程、復元工事で変わった都市環境とビジョンなどを展示しています。

観覧のご案内

清溪川の過去と現在、未来を展示する清溪川博物館の常設展示室は建物の外の1階からエスカレータに乗り4階まで行ってから観覧するようにできています。階段ではなくランプ(傾斜路)を利用して、4階から展示物を見ながら1階まで降りて行けるようになっています。

展示内容

清溪川はソウルの都心部を横切って流れる重要な都市河川で、ソウルが朝鮮の首都として定められる前から流れていました。
清溪川博物館の常設展示室にはこの清溪川の歴史がテーマ別に展示されています。
清溪川が覆蓋される前の過去を見て、復元前まで暗闇の中にあった広通橋を再現したところを抜けて、復元事業の進行過程などをみることができます。
また復元された清溪川周辺および都市景観の変化と未来をみることもできます。
朝鮮時代以降、人々の暮らしと清溪川がどんな関係であったか、そして環境都市を目指すソウルでの清溪川の役目などが分かります。

清溪川博物館4~3階

ケチョン(開川)時代
朝鮮王朝の新しい都、ハニャン(漢陽)の中心部を東西に流れる河川は、都城の人々にとって生活用水を供給し、下水処理をするためにかならず必要な自然物でした。また、風水上で見ても、都城を明堂にする明堂水でもありました。しかし、山に囲まれた都城の中の地形、集中豪雨によく見舞われる気候、水がよく浸透する砂の河川であることから、この河川は随時氾濫し、都城民たちの生活を常に脅かしました。河川を自然のままに放置すると、都城を安全に維持できませんでした。1411年に太宗は、開渠都監という役を決め、自然河川を整備して盛土・擁壁を作らせました。開渠都監は、後に開川都監と名称が変わります。ケチョン(開川)というのは、自然河川の底を掘り起し、水流を多くすること、またはそういう風に作られた河川のことです。忠清、全羅、慶尚道など地方から上京した52,800もの人たちが2ヶ月間苦労して労役を働き、自然河川を開川に変えました。その後、都城民の日常生活と深く関連しながら600余年間流れ続けてきました。
チョンゲチョン(清渓川)、チョンゲ(清渓)路
日帝強占期 清渓川の別称は、「都市のガン腫」、堤防道路の別称は「殺人道路」でした。都市の人口増加や産業化、生活様式の変化により清渓川の水質は急激に悪くなり、民俗行事の日になるとたくさんやっていた川沿いでの民俗遊びはできなくなりました。清渓川を覆蓋せよという市民たちの要求が相次ぎましたが、日帝の当局は、これを黙殺しました。清渓川を覆蓋することで、「都市のガン腫」を根本的に取り除くという構想は、1936年京城府域が拡張されてからでてきました。しかし、侵略戦争にすべての財源をそそぐ必要性に迫られ、構想は虚しい夢に過ぎませんでした。ソウル市民の念願であった清渓川の本流の覆蓋工事が始まったのは1958年であり、清渓川全区間が覆蓋されたのは1977年でした。この長期間の工事を通じて清渓川は清渓路となり、道路沿いには商店街や工場が立ち並び、韓国の産業化をリードしました。清渓路の上にかけられた清渓高架道路は道路沿いに建設された3.1ビルと共に長らくソウル発展のシンボルとなり、韓国の近代化の象徴の役割をはたしました。
清渓川「復元」事業
1990年代後半の聖水大橋と三豊デパートの崩壊、IMF金融危機は1世代にかけた開発時代が終わりを告げようとしていることを知らしめました。新しく導入された地方自治の中で成長と開発よりは生態環境や歴史文化遺産の保全が民選市政の重要な価値として浮上しました。ソウルの都心を貫通する清渓川覆蓋道路は、老朽化が進み、全面的な保守が急がれました。大きな予算をかけて開発時代の遺産を維持するよりは、これを撤去して消えていった清渓川を取り戻そうという主張が2002年の民選3期のソウル市長選挙において主な争点となったのです。まず、構造物を保守して活用し、河川の復元は長期的に検討しようという慎重論に真っ向して今すぐ復元すべきだと主張した李明博候補が当選したことで、清渓川復元事業は、ソウル市の最優先事業として推進されました。 2002年7月、市長就任と共に復元事業のための推進組織が構築されました。その後、2年3ヶ月におよぶ工事の末、総延長5.84kmに至る清渓川の復元工事が終わりました。
‘復元’ 後、10年
2015年10月には、清渓川が「復元」されて10年になります。安全が懸念された古い高架構造物の下の覆蓋河川であった清渓川を憩いの場として澄んだ水が流れる河川に変えるのには比較的短時間でできたと思います。清渓川は復元されてすぐソウルの新しい名所となりました。現在は、1日6万人近い人たちが清渓川沿いを歩いたり、川べりでまったりしています。外国人観光客や都市河川専門家らもよくここを訪れます。この新しい名所に対するソウル市民の満足度は相当高いといえます。しかし、当初掲げていたスローガン通り、自然生態環境と歴史文化遺産が本当に復元されたのかについては、批判的な見解が多いです。支川の自然水を引き込めずハンガン(漢江)から汲んできた水で維持される人口河川がもつ生態性の根本的な限界、そして人々の期待に満たない清渓川と川べりの歴史遺産の復元のせいで、清渓川復元事業は「復元」という美名の下に成し遂げたもう一つの開発事業に過ぎなかったという批判世論がくすぶっています。清渓川は市民が変えていく余地のある未完の復元河川としてその未来はまだ開かれたままです。